うそつき

 その日は晴れだった。清々しいほどの青空と眩しいほどの白い雲の漂うお天気の中、俊夫と幸夫はデパート内のレストランで、昼食を取るためメニュー表を眺めていた。レストラン内には昼食時とあって、利用客が多い。多くがご婦人の集まりで、ちらほらとご年配の夫婦が座っていて、俊夫と幸夫のように父親と十歳になったばかりの息子、という組み合わせは他になかった。二人は窓際の席に座って、直射日光に目を細めながらどのランチにしようかと頭を悩ましていた。
 その日、俊夫と幸夫は病院の帰りだった。俊夫の妻である幸子、つまり幸夫にとっては母親、が近々出産のため、念のため病院に入院しているのだ。朝早く幸子のお見舞いに行き、幸子に生まれてくる子供のために、洋服やら靴やらを買ってきてくれないか、と頼まれたため、デパートにやってきたのだった。産まれてくる子は女の子で、幸夫が使っていた服などのお下がりを着せようと初めは言っていたのだが、やはり新しいものを着せてやりたくなったらしい。俊夫は話が違うじゃないか、と思ったが、女の子の誕生が嬉しくて、幸子の意見に従った。病院から出てきたのが昼近かったため、育児用品コーナーで商品を選ぶ前に、レストランで昼食をとることにした。

「何を食べるか、決めたのか」

 俊夫はメニュー表から顔をあげて、幸夫を見た。幸夫は俊夫の問いにそれまで見入っていたメニュー表から目を離し、俊夫の顔を見てオムライス、と言った。俊夫は幸夫の返事に満足し、ウェイターを呼び料理を注文した。

「最近、学校はどうだ」

 幸夫は注文した後も、メニュー表を見て俊夫の方を見なかった。俊夫は幸夫に尋ねた。普段、家庭の諸事情はすべて幸子に任しており子育てに全く参加していない俊夫は、どのようにして幸夫に接してよいのかわからず、ただ黙りこくった息子に耐えかねての質問だった。

「普通」

 俊夫の気まずさに気付いてなのか、幸夫自身戸惑っているためなのか、ただ単語を発しただけの幸夫はそれ以上何も語らず、ウェイターが置いていった水の入ったコップを見続けている。俊夫は幸夫のその反応に少々気分を害した。そのため、以前このレストランに来たときのことを思い出した。
 このデパート内のレストランに、俊夫は家族で来たことはこれまでなかった。だからといってこのレストランに来たのは初めてではない。俊夫は仕事先で出会った五つか六つ年下の後輩と、何度もこのレストランに来ていた。幸子には残業のため、家に帰るのが遅くなると言い訳をして。以前ここに来たのは、一週間程前の夕食時だった。仕事終わりに彼女を呼び出して、ここのレストランにつれてきたのだ。このレストランは昼時は家族で気軽に入れるような雰囲気にしてあるが、夜になるとワインやカクテルなどを提供する、大人向けのレストランになる。この変化が俊夫は好きで、また買い物も手軽にすることができるため、デートの時はよく利用する。俊夫も彼女もいまの関係に満足しており、彼女と会い話し合い愛し合うことが、俊夫の楽しみの一つとなっている。

「お父さん」

 俊夫が幸夫に目をやると、幸夫はデザートのページを開きながら、俊夫を見ていた。

「デザート、頼んでもいい?」

 幸夫は尋ねた。俊夫はこの後の買い物のことを考え、しかし幸夫との会話の機会を失うのもよくないのではないかと考え、こくりと頷いた。丁度側を通りかかった、先ほどとは違うウェイターに声をかけ、幸夫はこれ、とメニュー表にあるデザートの一つを指差した。ウェイターは承知しました、と言ってエプロンポケットに入っていたメモ帳になにやら書き込み、テーブルを離れた。
 ウェイターがいってしまった後も幸夫は、飽きもせず繰り返しメニュー表をめくって眺めていた。俊夫は水を少し飲んで、言った。

「産まれてくる子は女の子だそうだ。幸夫、よかったな」

 俊夫の言葉を聞いて、幸夫は俊夫を見、首をかしげた。

「よかった?」
「嫌か?」

 幸夫はメニュー表に目をやり、よくわかんない、と呟いた。
 俊夫は違和感を感じた。兄弟ができることが、嬉しくないのだろうか。俊夫には兄弟がいない。けれども、友人たちは兄弟がいることについて、めんどくさいとか嫌なやつとかいいながらも、兄弟を大切にしていたように思う。兄弟がいてよかった、と言うやつもいた。
 母親を奪われるかのように、感じて嫌だ、と感じているだけなのかもしれない。どこかでそのような、医学的で心理学的な文章を読んだような気がする。子は父親や母親に守られなければ、生きていけない。しかし、兄弟が産まれることによってその庇護は、それまで独り占めできていたのにできなくなり、そのことを怨み恐れる。その不安を、どこかしら感じているのかもしれない。
 一緒に暮らしていけば、その不安が無くなって、兄弟がいるということを喜ぶだろう。弟が欲しかったとか、兄や姉が欲しかったというかもしれないが。
 俊夫は話を変えることにした。

「お前の担任の先生って、なんて名前だっけ」

 幸夫はメニュー表に飽きたのか、それを閉じ、ぼんやりと外を見た。レストランはデパートの五階にあり、外は大きな道路に自動車、大勢の人が歩いていた。天気のよい休日の、ありふれた光景だ。幸夫は先生の苗字を言いそれを聞いて俊夫は、そういえば以前幸子が、今年来たばかりの体育の若い男の先生だとか言っていたことを思い出した。

「いい先生か」

 幸子は、まだまだ若くて経験の浅さが目立つ先生だけど、熱血漢で生徒にはなかなか人気があるらしいわよ、と言っていた。家庭訪問をし参観日をし、保護者ときちんと話をするとか。保護者が求めれば生徒と保護者の間を取り持つし、生徒が望めば保護者を説得する。暴力に訴えない、対話を怠らない、努力を惜しまない、指導者として立派な人物になるかもしれない。

「先生は、うそつきだと、思う」

 幸夫はそう言った。

「うそつき?」

 俊夫がその言葉の意味を確かめようとしたときに、ウェイターが注文した料理を運んできた。デザートは後でお持ちします、とのことだった。ウェイターが去っていった後、俊夫は幸夫の言葉の後を待ったが、幸夫は話さず、オムライスをゆっくりと、おいしいともまずいともいえないかのような表情で、食べ始めた。俊夫は何も言えず、食事に手をつけ始めた。



 三十分程して幸夫はオムライスを食べ終え、その間にウェイターが水を注ぎに一度来た。俊夫は幸夫が食べ終わる十分程前にすでに食事をし終わっていたが、幸夫に特に声をかけることなく、黙ってこの後何を買おうか、今日の夕飯はどうしようか、出産予定日は明日だがいつごろになるだろうか、とかぼんやりと考えていた。幸夫のうそつき、という言葉の意味を考えるのが、なんとなく躊躇われて、そちらに意識を向けることを拒んだ。
 ウェイターが食器をさげ、デザートを運んできた。デザートは幸夫のものだけ頼んだはずなのに、なぜか二皿あった。

「あの、一皿しか頼んでいないと思うんですけど」

 俊夫がそう言うと、ウェイターは言った。

「店主のサービスです。お気になさらないでください」

 そう言って、ウェイターは去っていった。その返事を聞いて俊夫は、もうここは二度と使えないな、と判断した。デザートが二皿あることに幸夫は喜び、両方とも食べてよいかどうか、俊夫に尋ねた。俊夫は幸夫のほうに皿を寄せ、幸夫の食べる様子を眺めた。幸夫はオムライスを食べるときのような食べ方ではなく、嬉しそうにスプーンを動かし口に入れた。

「サービスって、どうして?」

 幸夫はデザートを食べながら尋ねた。十歳にもなれば、サービスという言葉の意味を理解できるのか、と、俊夫は自分がいかに子供を侮っているのかに気付いた。俊夫はなんともないように、水を飲んで答えた。

「仕事の関係でね、よく使うんだよ」

 幸夫の視線を感じたが、そちらを見ずに外を眺めた。仕事場はこのデパートから遠い位置にあるが、さすがにそのことは知らないだろう。幸夫は俊夫の返事に満足したのか、再びデザートを食べ始めた。一皿目はあらかた食べてしまい、二皿目に取り掛かった。
 幸夫は再び俊夫に尋ねた。

「お父さんは、子供、よかった?」

 俊夫は幸夫の問いの意味が一瞬わからなかったが、娘が産まれることを喜んでいるのかどうかを尋ねているのかに気付き、ああ、と返事した。幸夫のほうを見る。幸夫は俊夫を見ていなかった。

「やっぱり息子もいいけど、娘もいいなと思うよ。よかったと思う」

 幸夫はふーん、と言って、黙々とデザートを食べていった。なぜだか俊夫は幸夫の返事を聞いて、不安を抱いた。幸夫は何か知っているのではないだろうか、何か隠しているのではないだろうか。俊夫は、幸夫が先ほど、なぜうそつきと表現したのか気になり、尋ねた。

「そういえば、どうして担任の先生は、うそつきだと思うんだ?」

 幸夫は顔をあげ、俊夫を見た。その真っ直ぐな視線に俊夫は思わず、たじろぐ。

「先生だけじゃないよ、大人はみんな、うそつきだよ、お父さん」

そう言って幸夫は再びデザートに取り掛かった。俊夫はそれ以上、何かを言うのが怖くなり、何度も水を飲みウェイターに水を注がせた。
幸夫はデザートを食べ終え、皿の上にわずかに残ったシロップ等をこそぎとるかのように、スプーンを使い始めたので、俊夫はそれをやめさせ、席を立った。

「おい、出るぞ」

 俊彦はそう言って、幸夫を急かした。俊夫はレジに行き、幸夫はその後をついて歩く。
 幸夫は、小さく声をたてずに、笑った。