蓮の花が咲く

 蓮の華が咲いた。白く大きな華。その華畑沿いの道をゆっくりと、私は少し大きめな紺色の傘をさして歩く。空は曇天。風は強気。空気は湿気。気分は、不思議。車もバイクも自転車も誰も、道にいない。たったひとり私は歩く。そして、ただただあなたを思う。遠くで雷の鳴っている音がする。ゆっくりと歩を進めながら、昔のことを思い出し、微笑む。

 ああ、もう昔のこと。

 蓮の葉はとても大きく、華もとても大きい。その大きさに、子供なら夢を託すのだろう。大人なら背を比べるのだろう。老人なら、死を思うのだろう。なら私は、老人だ。少し歩を止めて、手を伸ばせば届く位置にある華に、そっと触れる。白くて気高い華。もし私が子供の頃にこの華に夢を描いたのなら、どのような夢を託しただろう。神聖、潔癖、純潔、沈着、安寧。蓮に触れていた手の甲に、雨粒がひとつ、落ちた。そうっと離れて、歩き出す。一歩一歩と歩くにつれて、雨が強くなっていく。私はゆっくりと、歩き続ける。蓮の華の美しさに少し見惚れながら。でも、その根はどうなのかしら。醜いのかしら。それとも、華よりも美しいのかしら。
 彼を思う。

   *

 ほんの二ヶ月ほど前のこと。その日も雲は重く、風は吹き荒れ、雨は叩きつけるようだった。雷は鳴っていなかった。それは梅雨の時期のこと。そんな天気でも私の気分は高揚し、浮き足だっていた。とてもよいことを思いついたからだ。彼を喜ばせてあげることができる、喜びを抱いていた。楽しみだった。楽しみ、そう、楽しみだった。私は彼が仕事から帰ってくるまで、昔繰り返し何度も聴いていた音楽のメロディーを思い出し、口ずさみながら夕飯の支度をしていた。その日の献立は、鳥の唐揚げ、千切りキャベツにプチトマト、ほうれん草の白和え、豆腐とわかめの味噌汁、白ご飯。それと、彼をびっくりさせるために買った、大きくて丸いショートケーキ。もちろん蝋燭も用意している。ケーキの上にチョコのプレートをつけてもらって、文字は、お誕生日おめでとう。
 炊飯器の音が鳴って、揚げ物を揚げ終えて、お椀にあとはそそぐだけとなり、私は畳の間にあるちゃぶ台に、ひとつひとつ丁寧に、こぼさないように、料理を持っていく。部屋はとても狭い。人一人立っているのがやっとの玄関、短く暗い廊下、廊下に備え付けられているこじんまりとした台所。廊下の先にある畳六畳の間。廊下の途中に小さなトイレと小さなお風呂。脱衣所は一畳か二畳か。ベランダはなく、洗濯物は畳の部屋に吊るしている紐にかける。今日は洗濯物を洗わなくてよかったと、畳の上で少し横になり、思う。

 彼はいつ、帰ってくるのかしら。

 料理の熱と香りと水の臭いと雨の音の世界に浸りながら、少しまどろんだ。まどろんで十分たったか一時間たったか。玄関の鍵が開く音がして、ゆっくりと体を起こした。帰ってきた。料理あとに脱ぐのを忘れたエプロンを取り、くずれてしまった髪を軽くなで、彼に声をかける。

 おかえりなさい。

「ただいま」
 不機嫌で退屈で鬱屈した彼の返事が聞こえた。私は微笑む。彼がひょこりと、私の前に姿を現した。机の上の料理を見て、来ていた上着を脱ぎ捨て、廊下と部屋の仕切りであるガラス張りの障子のような扉にもたれかかり、私をじっと見つめる。扉が彼を支える。少し羨ましい。彼は私から視線を逸らし、おもむろに胸ポケットにあった煙草とライターを取り出し、火をつけ、肺を埋め尽くすかのように煙草を吸った。そんな彼を横目で見つつ、私は彼のために台所にいって、流しの側に置いてあった灰皿を手に取る。つつ、と指先で灰皿の淵を撫で、それから彼の側にそっと立つ。邪魔にならないように、でも気付いてもらえるように。私は両手で、彼が一番使いやすいであろう位置に灰皿を固定し、彼はその灰皿に灰を落とす。その灰をじっと見つめ、自分が満たされていくのを感した。
 彼が、煙草の煙を吐く。その横顔を上目遣いで見る。青白く疲労が固まった表情。彼は泣き言や愚痴を言ったりしない。けれども、だからこそ、仕事や人間関係でとても疲弊していることを感じ取れる。彼はとても優しくて繊細な人だから、他の人よりもずっとこの世を嘆いているに違いない。もうすこし意地悪で大雑把な人になれたら、そんなにも苦労しないのに。とても不器用で愛おしい人。それが彼のいいところ。そんな彼を理解し癒してあげられるのは、私だけ。私にしかできない。彼が煙草を灰皿でもみ消した。

 さあ、ご飯を食べましょう。

 私は台所に行き、煙草を三角コーナーに捨て灰皿を水で軽く洗う。彼はゆっくりとした動作で畳の間のちゃぶ台の、いつも座るところまで行き、まるで膝の力が抜けたかのように座る。彼の背中姿が頼りなさげで物悲しそうで色っぽい。思わず頬ずりをしたくなる。大丈夫、大丈夫だよ、と。愛おしい気持ちが溢れ出す。彼がぼんやりと今日の献立を眺めている。そんな彼を、彼がついさっきまで立っていたところから、じっと見つめる。今日の料理はいま、このちゃぶ台に並んでいるもの以外にもあるのよと、早く驚かしてあげたい。そして彼を幸せにしてあげたい。はやる気持ちを抑えつつ、私は普段通りに彼の前に座り、手を合わせ、いただきますを言う。彼も言う。
「今日は俺のいない間、何してた」
 雨の音に紛れてしまいそうなか細い声で、彼は尋ねる。のどが痛いのかもしれない。風邪でもひいたのかそれとも煙に声を持っていかれたのか。食器の当たる音、雨の当たる音、咀嚼する音、呼吸の音、心臓の音。今日は図書館に行ったの、と言う。私の声は彼にどう聞こえているのかしら。女の子の声、天使の声、天女の声、女性の声、母親の声。もしかしたら、女神の声かもしれない。図書館で蓮の華について、調べていたの。そう続ける。
「何かわかったか」
 私はこくりと頷く。白くて大きくて美しい蓮の華。蓮の華ってあんなにも綺麗で不思議な雰囲気に包まれていているのに、その根本には穴の空いた蓮根ができるのよ。水と泥にまみれても気高くあり続けるのよ。とても面白いわ。そんなことを思う。でも口に出しては言わない。この驚きをどう表現すればいいのかわからないし、彼は私が頷いたのを確認して、ご飯を一所懸命食べ始めたから。私のことを気遣っていてくれる彼、見守ってくれようとしてくれる彼。不器用な彼。優しい彼。愛おしい彼。彼が私に空になったお茶碗を出したら、私はそこにご飯を盛る。汁椀ならお味噌汁を。小皿なら白和えを。唐揚げのおかわりはないから、首を横に振る。ごめんなさいね。まるで長年連れ添った夫婦のよう。三十分もしないうちに、用意した食事は全てなくなり、私は食器を台所にさげる。彼はそのままその場で横になり、ぼんやりとしている。いつもならすぐ食器を洗い片付け始めるのだけれども、今日は違う。私は冷蔵庫を開け、ケーキを取り出す。大きな大きなバースデーケーキ。丸くて綺麗なショートケーキ。ケーキをちゃぶ台に乗せたところで彼はケーキの存在に気づき、体を起こす。
「これは、なんだ」
 私は微笑む。チョコのプレートの文字を彼に見えるようにケーキを動かす。彼は文字を見て、少し笑う。
「俺の誕生日は、来月だよ」

 知っているわ。でも、いいの。

 私はそんなことを思う。包丁とケーキの取り皿とフォークを台所から持ってくる。包丁を、チョコのプレートを彼の皿に乗せてから、ケーキの真ん中にあてて半分に切る。一人では食べきれないほどの大きな丸いケーキが半分になる。半分でも、食べるのが大変そう。それでも、ケーキを食べるなんて久々で、彼の表情が少しいきいきとする。ああ、ケーキを買ってきてよかった、と心の底から思う。とても幸せな気持ちになる。彼を幸せにしよう。もっともっと幸せにしよう。ケーキをゆっくりと崩れないように、互いの皿に乗せる。溢れて落ちそうになるけれども、構わない。食べきれなくったって構わない。彼が幸せになってくれるのなら、それでいい。私はもう、何もいらない。欲しくない。

 お誕生日おめでとう。

 私はフォークをケーキにさして、食べる。おいしいかどうなのかはよくわからないけれども、もくもくとケーキを食べる。彼を見ると、彼も私を真似てケーキをもくもくと食べている。チョコのプレートは皿の端に残したまま。彼は少し戸惑っているみたい。きちんとしたお店で買った、きちんとしたショートケーキ。でも、いまいちおいしいと思えない。微妙な味のケーキだから、彼は戸惑っているに違いない。苺は酸っぱくて甘さが薄くてクリームはもっちりとしていてスポンジは少し水気が飛んでいるケーキ。チョコのプレートは、おもちゃのような感じだから、きっとおもちゃのような味がするんだろう。そんなケーキだけど、きっと彼はお世辞を言ってくれるに違いない。彼は私にとても優しいのだから。確かめるために、おいしい、と聞く。
「おいしいよ」

 ほら、ね。

チョコのプレートが溶けて艶めかしく見えるようになる頃に、大きくて丸かったケーキはちゃぶ台の上からその姿を消した。甘いものは心を和やかにすると、何かに書いてあったように思うけれども、本当にそうだと思う。彼は満腹といった表情をし、再びその場に横になった。帰ってきたときの悲壮感漂う様子はなくなった。今はただ腹を膨らまして少し苦しそうな男性が一人、いるだけ。彼がゲップをする。私も苦しくてゲップをしそうになるけれども、こらえる。彼をちらりと見る。彼は嬉しかったかしら。彼は喜ぶかしら。この事態を。私はちゃぶ台の上に残った皿とフォークと包丁を台所に持っていく。
 流しには夕飯のとき使用した食器が積み重なっていた。それらの食器の存在を、ケーキに夢中になっていたから忘れていた。少しぼんやりとしてしまう。そのお皿いっぱいの流しに先ほどの皿とフォークを置き、彼が結局手につけなかったチョコのプレートは三角コーナーに捨てる。蛇口を開け、水を流す。汚れがどんどん排水溝に吸い込まれていく。こうやって流れていった水は外の雨と交じり合って消えてなくなって海に行くのだろう。そうやってすべてはきっとどこかに流れ着くのだろう。彼の悲しみも私の喜びも。食器たちを洗剤をたっぷりつけたスポンジで洗う。力いっぱい洗う。油汚れもご飯ののりも味噌のかすも何もかも、洗い落とし流す。
 私が食器を洗い始めると、彼はゆっくりと体を起こし、畳の隅っこに放置してあったパンツとパジャマを持ってお風呂場へ行く。皿を一枚一枚洗う音の中に、彼のシャワーの音が混じる。雨は相変わらず降っている。食器を洗うことに集中する。洗剤は交わって海に流れる。少しして彼はお風呂場から出てきて、私の隣に立った。水滴が髪にいくらか残っていて、それがぽつりぽつりと床を濡らす。ライターの音が数回鳴った。
「ケーキ、ありがとう」
 煙を吸って吐いたあと、彼は言う。片手には煙草。煙が上に伸びている。そんな彼をちらと見て、奮発して大きいケーキを買ってよかった、と思う。久々のケーキはあまりおいしくなかったけれども、それでも買ってよかった。だって、彼の優しさに触れられたから。彼は肺いっぱいに煙草を吸う。体中に煙を廻らせるように、すべてを覆い隠すように、煙草を吸う。

おいしそう。

 彼は台所に置いてあった灰皿に、煙草を押し付けて畳の間へ行く。箪笥から敷布団を出して、一枚一枚敷いていく。私と彼の布団の間には、ほんの拳くらいの距離。近くて遠い距離。布団を敷き終わると彼は横になる。ケーキよりも煙草を買って、二人で肺が真っ黒になるまで吸うほうが、よかったかしら。残された灰皿の煙草を見て、ふと思う。もっとも、彼の肺はすでに真っ黒だろうけれども。彼が吸っていた吸殻を指でつまんでつぶす。つぶした後、残った皿をすべて洗いきり、煙草を三角コーナーに捨て灰皿を水で洗い流す。
「おやすみ」
 彼はそう一言言って、目を閉じる。食器を洗い終わった私は彼に近づく。彼の側に座って、もう寝てしまうの、と聞くと、彼は消え入りそうな声で言う。
「疲れてるんだ、寝させてくれ」

 知ってる。

 あなたが現実に疲れきっていることも、その疲れを紛らわして日々生きていることも、私は知っている。同じことの繰り返しの日々。永遠の地獄の日々。自分に言い訳することに疲れきってしまっている日々。でもそんな日々を終わらせる方法を、私は今日、知ったの。そのことをいままで恐れていたけれど、それは私が無知だったからことのこと。今はもう知っている。だからもう大丈夫。怖くなんかない。蓮の華の上でまた会いましょう。
 そうっと、彼の唇に唇を当てる。暖かくて柔らかくてこそばゆい。愛しい人。右手で彼の頬を撫でる。彼はもう、寝息をたてている。私は彼と一緒に暮らした。暮らしていく中で彼の絶望が大きくなっていった。私にできることは数少ない。でも私にしかできないことは必ずある。それを知るためにいろいろなものを見、いろいろなものに触れてきたのだと思う。そしてようやくそれを見つけた。
 彼の枕元にあった煙草とライターを拾い、台所の三角コーナーに捨てる。もうこれはいらない。これは彼の救いにはならない。洗い終わった包丁を持って、彼のところへ行く。それを両手で握る。彼にまたがり、繋がっていた日々を少し思い出す。あのときは気持ちよさがわからなかったけれども、彼が満足しているようだったから幸せだった。でも最近は繋がっていない。彼は幸せから遠ざかったのだ。遠ざかるを得なかったのだ。きっと、外の世界が彼を追い詰めて彼の心を奪ってしまったんだろう。幸せがどのようなものなのか、わからないほどに。だから私が彼の幸せを取り戻す。それがたとえ辛いことでも、彼が幸せなのなら、それでかまわない。
 両手を振り上げ彼の心のあるところに振り下ろす。一回では駄目だと思い、二回三回と何度も下ろす。何度も振り下ろすと暖かくなって、彼の優しさに触れたような気がした。

   *

 雨は次第に強くなる。強い雨に打たれて、足元がふらつく。最近はめっきり体力が減ってしまった。あまり外に出ない生活をしていたからだろう。でも、今日はなんとなく、外に出たくなった。こんなひどい天気のせいかもしれないし、咲き誇っている蓮の華を確認したかったかもしれない。くるりと、持っていた傘を回す。二人で並んで少し小さいくらいの、一人じゃ大きい傘。紺の傘。まわすたびに雨が飛び散る。空から落ちる雨によって、地面は次々と濡れ水溜りは大きくなり溝は水に浸かる。こんなひどい天気でも私は笑みを崩さない。だって私は彼を幸せにすることが、できたのだから。彼を救うことが、できたのだから。
 家のアパートの側に、赤いランプが点いていた。パトカーと救急車が停まっている。きっと隣に住んでいるおばさんが、隣から異臭がするといって呼んだのだろう。ここのところ毎日、インターホンを鳴らしては臭い臭いと繰り返し叫んでいたから。神経質な人で困ってしまう。彼ならこの事態をなんていうかしら。なんて馬鹿げたことなのでしょう。

 ねえ、そう思うよね。